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TAKAHASHI ROCK ME BABY

Text by Takayuki Okamoto

“ドカドカうるさいR&R宣伝マン”が
目撃した日本語ロックの激動期

ロックの歴史には、ある人の人生を一瞬で変えてしまうほど強烈なインパクトを与えるミュージシャンが多く存在する。
今回ご登場頂いたのは、そんなミュージシャンの1人、忌野清志郎に人生を変えられた人物だ。

10代の頃からブレイク前のRCサクセションのライヴに足繁く通い、“忌野清志郎に会いたい!”という一念で彼を追いかけ続けた結果、東芝EMIに入社、コスプレをした“ドカドカうるさいR&R宣伝マン”としてファンにもお馴染みになった高橋ROCK ME BABYさん。多くの名曲と数々の騒動を巻き起こした清志郎の活動をつぶさに見つめてきた高橋さんは今年、そのスピリットを継承したマネージメント&レーベル「me and baby music」を立ち上げた。忌野清志郎との出会いと知られざるエピソード、そしてマネージメント&レーベルの立ち上げの理由について話を訊いた。

―高橋さんは東芝EMIの宣伝担当として忌野清志郎さんとお仕事をされていたということですが、最初に忌野清志郎さんと出会ったきっかけを教えてもらえますか?

高橋:16才の頃に、まだ人気がなかった頃のRCサクセションを観て「凄いな!」と思って、すぐに清志郎さんのことを追いかけました。ジョン・レノンとかミック・ジャガーには会いたいとは思わなかったんですけど、“忌野清志郎だけには会いたい!”って思って。それで東京や関東近郊のライヴ会場によく行ってました。

―その頃はすでにRCサクセションはバンド編成になっていたんでしょうか。

高橋:バンド編成になりたての頃でした。凄かったですね、清志郎さんの歌もバンドサウンドも。世界的にも、歴史的にも、最高のバンドだと思いました。まだ人気が出る前で、全くお客さんがいませんでしたが(笑)。

―熱心なファンだったわけですね。そこからどうやって清志郎さんとお仕事ができるようになったのですか?

高橋:清志郎さんに会いたいからレコード会社に入りたかったんですけど、大卒しか採用されないし、なかなか入れなかったんです。何とか入りこめないかいろいろ動いていたら、音楽評論家の佐伯明さんにお会いできました。佐伯さんはRCのことも書いていた人でしたので、そのまま佐伯さんのマネージャー兼 アシスタントをやることになりました。しばらくして佐伯さんから、当時、東芝EMIの有名人で、今は岡村靖幸さんの事務所の社長をやっている近藤(雅信)さんを紹介してもらったんです。近藤さんのことは、当時、清志郎さんの文章の中にも出てきていたので、一方的に知っていたんです。

―でもレコード会社って敷居が高かったんじゃないんですか?

高橋:1980年代後半で、超バブルな時だったんです(笑)。だから近藤さんも忙しくて、アシスタントを欲しがっていました。宣伝戦争の時代で、東芝EMIはトップを独走していて、中でも近藤さんはトップの宣伝プロデューサーとして、RCサクセションをはじめ、再結成したサディスティックミカバンド、高野寛、ワーナーか らの移籍してきた矢沢永吉らを担当して成功を収めていました。アーティストの作品をどうやって世の中に仕掛けていくかという仕事でしたので、音楽のことを良く知っているやつがいいっていうのがあったんです。それで近藤さんと話したら、ヴァレンティノス(ボビー・ウーマックが在籍したグループ)の「ルッキン・フォー・ア・ラブ」を近藤さんが大好きで、60年代の黒人音楽のポップ感覚に影響を受けたロックンロールバンドはかっこいいという話になって、そこからフェイセスやストーンズ、レッド・ツェッペリン、ブルースやカントリーの話まで、もう時間を忘れてロックンロールの魅力について話して、すごく盛り上がったんです。それがきっかけで東芝EMIに誘ってもらいました。最初は契約社員だったんですけど、あっという間に社員になりました。

takahashi_prof

―まさにバブルならではの(笑)。

高橋:バブルならでは(笑)。それですごく忙しくて。RCが『MARVY』の継続プロモーションから『COVERS』に移った頃で、入社するかしないかの時に『COVERS』が発売中止になっちゃって(笑)。※1

カバーズ

※1 東芝EMIから1988年8月6日に発売される予定だった洋楽カバー・アルバム『COVERS』は、先行シングル「ラヴ・ミー・テンダー」ともども、「素晴らしすぎて発売できません」という新聞広告が打たれ発売中止が発表された。反核・反原発が歌われた楽曲が収録されているため、親会社の東芝からの圧力がかかったためと言われている。

 

―まさに日本ロック界の歴史的な事件の渦中に身を投じたというか。すごいタイミングですね。

高橋:なんでこんなことになっちゃったんだろう?みたいな。

―ファン時代に清志郎さんと話したことってなかったんですか?

高橋:いや、ないですね。全く口を聞かないですし、全然話さないですし、人を寄せつけない感じでしたから(笑)。

―昔ライヴハウスに通っていたことは伝えたんですよね。

高橋:伝えたんですけど、全く意に介さずに「ああ、そう」くらいの感じでしたね(笑)。チャボさんは、「そういえば、あの学生服でバカみたいなやつがいたなあ」みたい な感じで笑ってくれたんですけど。清志郎さんは全くそういうのはなかったですね(笑)。

―非常にらしいというか、昔の清志郎さんのイメージは無口で取っつきにくそうな感じがしますもんね。東芝EMIでは最初はどんな仕事から始めたんですか?

高橋:近藤さんの下に入る前に東芝EMIのコンベンションを手伝いに行ったんです。そのときに横浜のベイサイドクラブっていう大きなクラブで、トリが清志郎さんだったんです。その時に清志郎さんが「本当は来たくなかったんだけど、近藤に連れられて来ました」ってMCをしていて(笑)。それで「RCサクセションはいま新しいアルバムを作っているので、その中の曲をやります」って言って「Love Me Tender」を思いっきり歪んだエレキギターで弾き語りしてたんです。そしたら僕が入社する頃に発売中止になっちゃって。『COVERS』は東芝EMIじゃなくて古巣のキティレコードからリリースされることになったので、せっかく入れたのに、いなくなっちゃうかもしれないみたいな(笑)。でも近藤さんがいたおかげで、RCサクセションはまた東芝EMIに戻ってきてくれました! 本当にうれしかったです。その年の12月に『COVERS』のライブ盤『コブラの悩み』が発売になるのですが、もちろん超問題作で(笑)※ 2。この時、はじめて清志郎さんに認識してもらいました。ロックがはじめて社会と対峙した事件だったので、全国のメディア、特にテレビのニュース番組や新聞、一般週刊誌が清志郎さんの行動や言動に注目していました。誰もが彼の声明を欲しがっていた真っ只中に、僕が近藤さんの下で清志郎さんの正式な宣伝担当になり、イメージングやメディアのセレクト~スケジュールに至るまで、全てを任せてくれたんです。いま思うと、メジャーの真ん中で清志郎さんが世の中と戦っている中、まだ未熟な僕に全てを任せてくれた近藤さんの勇気は凄いですね(笑)。

コブラの悩み (Live)

※2 『COVERS』発売中止騒動の真っ只中に行われた日比谷野音でのライヴを収録したアルバム。「アイ・シャル ・ビー・リリースト」「言論の自由」「軽薄なジャーナリスト」「君はLOVE ME TENDERを聴いたか?」等、発売中止への怒りを露わにした楽曲が収録されている。

 

―その後、清志郎さんとはどんなお仕事をしたんでしょうか。

高橋:ザ・タイマーズの時に、みんなでコスプレをしようという話になったんです。僕も ヘルメットを買ってきて、やると決めたら徹底的にやる。頭の先から足の先まで、タイマーズになりました!そのスタイルで色んなメディアにゲリラプロ モーションをやって、それがすごく話題になったりしました。その後、高野寛君のレコーディングでNYに行ったんですけど、その時に色んな洋服を買ったり、髪を切ったりして「もっとコスプレに磨きを かけた方が良いな」と思って。タイマーズでコスプレした後だったから(笑)。それで日本に帰ってきて、メイクしたり電飾を付けたり、当時、清志郎さんがZO-3ギター※ 3を持っていたんで僕も持って弾きながら、電車に乗り、放送局や出版社を襲撃しました(笑)。

zo3
 

※3 1990年にフェルナンデス社から発売され現在も人気のアンプ・スピーカー内蔵小型エレキ・ギター。発売当時、清志郎がZO-3を持ってテレビに出演したことから反響を呼び人気となった。

 

―そういえばZO-3って清志郎さんが広めたようなものですよね。

高橋:そうです、最初はあんまり人気がなかったのが、清志郎さんが持ちだしてから、いきなり人気が出たんですよ。

―1990年にやった渋谷ハチ公前のゲリラライヴでも高橋さんがメイクして一緒にいる写真が残っていますよね。

高橋:RCの20周年ということもあって、原宿竹下通りで成人式の日に、僕がコスプレしてハイエースの上に乗って、歌いながらフライヤーを撒いたんですよ。その様子を映像に撮っていて、ある日、それを見た清志郎さんが「俺もやりたい」って言って、外でやるようになったんです。有名な人がゲリラをやる。ストーンズ、コステロに続いて、世界で3番目、日本でははじめてでした。竹下通りとか色んなところを練り歩いて、最後にハチ公前に機材を用意しておいてライヴをやって。もちろん無許可なんですけど、本当は3曲だけの予定だったんです。ところが12~3曲やったんですよね。さすがにパニックになっちゃうんで、最後は逃げたんですけど。事件になるギリギリでしたね(笑)。これはプロモーションビデオにもなりました。ロック事件簿の貴重な記録映像のひとつですね(笑)あの時期は動けば事件が起こりました(笑)

―その後、RCサクセションは活動休止してしまうわけですが。

高橋:結成20周年にしてバラバラになってしまって※ 4。その後に清志郎さんのソロで「パパの歌」とか細野晴臣さんと坂本冬美さんとの「HIS」があって、ブッカーT&MGズとのメンフィス録音盤「メンフィス」があるんですけど、それも当たったんですよ。その後、僕は人事異動でユーミンさんの担当になって。ユーミンさんとの仕事もすごく面白かったですね。

※4  1990年にデビュー20周年を迎えたものの、キーボードのGee2wo、ドラムの新井田耕造が脱退。3人となったRCサクセションは1990年12月25日の日本武道館ライヴを最後に活動を休止した。

 

―清志郎さんからユーミンさんの担当への異動ってすごいですね。

高橋:ユーミンさんの音楽はそれまで「リ・インカネーション」「パールピアス」「ノーサイド」くらいしか聴いたことがなかったんですけど、担当することになり、全作品を聴いて、とても好きになりました。当時は圧倒的にユーミンの時代でしたので、やりたいことは何でもできました。とても楽しい日々だったんですけど、ユーミンさんと仕事をすればするほど、レコード会社だけではなく、マネージメントやパブリッシャーの仕事を体験してみたいと思うようになりました。直感的に冒険したくなった感じで、それ以上の理由が わからないのですが、ユーミンさんの唄には魂の奥底から突き動かす原動力があったんです。その後にFISHMANSがいる事務所に、音楽評論家の吉見佑子さんに紹介して頂きました。FISHMANSはちょうど『空中キャンプ』の時で、新しい流れを感じました。

―ここでも時代のエポックメイキング的な作品に関わっていらっしゃったんですね。 まさに絶頂期のFISHMANSという。

高橋:そうですね。FISHMANSもすごく楽しかったですね。でも最初は彼らの音楽の良さがわからなかった、当時は。『Neo Yankees’ Holiday』とか『Orange』はすごく良いなって思いましたけど、『空中キャンプ』はわかるまでに時間がかかりました(笑)。しかし、当時の若い人たちが支持していて、海外の人たちまで彼らのサウンドを絶賛するのを体験して、色んなことを学びました。

―その後、再び清志郎さんの所に戻って、晩年まで一緒に仕事をしたんですよね。

高橋:その後、必要のない野心と慢心の中にいつのまにか埋没しちゃって(笑)。そんな時に清志郎さんに「ちょっと手伝ってよ」って声を掛けられて、再びお仕事をさせて頂けることになりました。それまでの数年はあまり会ってなかったのですが、ライヴに呼んで頂いたりして顔は会わせていましたし、CDを送って頂いて作品も聴いていたので、久しぶりという感じではなかったですけどね。そうそう、清志郎さんが携帯のCMに出てたときに、携帯を置くと「行って来いベイベ~!」とか言うおもちゃがあったんですけど、それを送ってきてくれたこともありましたね(笑)。

―清志郎さんとの会話の中で印象に残っている言葉ってどんなものがありますか?

高橋:全てが印象に残っていますが、いま浮かんできたのは、2007年の日本武道館ジョン・レノン・スーパーライブ※ 5の時に、楽屋で「今日はあたまからしっかり見ておいたほうがいいよ」と言われて、いつもあたまから観ていたので、どうしてだろう?と思って聞き返してみると、「ノーカウントだから」と一言。メンバーは清志郎、チャボ、新井田さん、そして、キーボードとベースで厚見玲衣。一曲目は「マザー」の清志郎ヴァージョンで、リハーサルでは普通にカウントが入っていたのですが、本番を見て、驚きました!あの広い武道館のステージで、カウントもきっかけもなく、いきなり歌と演奏から入る。それも一点の曇りもない。タイミングもグルーヴもバッチリ!そして、何より清志郎さんの歌が凄い!人間力とヴォーカル力の最高沸点。鳥肌が立ちました!凄い!凄すぎる!この感じは何だろう?いままで聴いたことのない音楽。終演後、楽屋に行ったら「見た?ノーカウント(笑)」。その後、いっしょにオノ・ヨーコさんとクラウス・ヴーアマンさんの打ち上げに行きました。この時は清志郎さんとチャボさんが仲良く、まるで思春期のボーイズバンドのようで、嬉しかったです。この時のふたりのミラクルショットは、有賀幹夫さんの写真集で見ることができます。帰りもいっしょに武道館を出たのですが、マスコミからガードしたりして、僕が無意識に道を作ると、清志郎さんがサッと通り抜ける。空気の会話。なんだか20代の時のような感覚がよみがえり、最高に嬉しかった!

NAUGHTY BOY KING OF ROCK ‘N ROLL IMAWANO KIYOSHIRO

※5 ジョン・レノンの命日である12月8日におこなわれたチャリティ・コンサート。病気療養から復帰した清志郎は仲井戸“CHABO”麗市らと共に「マザー」「イマジン」を日本語で歌い、大きな感動を呼んだ。

 

―高橋さんが2015年に立ち上げたのが「me and baby music」というマネージメント&レーベルで、ロゴを清志郎さんの長女でイラスト・ゴムハンコ作家として活躍している百世さんが手掛けているんですね。

高橋:僕は百世さんの作品が大好きで、ぜひ新しくはじめる時は描いてもらえたらとずっと思っていたので、とても嬉しいです。かわいくて、ユーモアがあり、チャーミング。このロゴマークの商品を作りたいという方も出て来るほどの人気です。先日も被災地チャリティーでバッジを作りたいと言ってくれて、とてもかわいいバッジができました!

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―「me and baby music」はどんな理由で立ち上げたのでしょうか。

高橋:マネージメント&レーベルを立ち上げた理由は、RCサクセションの「RHAPSODY」をあらためて聴いて、凄すぎて、全てが吹き飛んだんです。それまで考えたり、悩んだりしていたことが、何もかも消えました。このライヴを観てから35年目にして、新しく価値観がひっくり返ったんです。清志郎さんの歌には生き方があり、かっこいいとか悪いとかではなくて、自分たちとおんなじだと感じさせてくれる実感が凄い。それは想像力や発想も含めて、ファンタジーや外国の真似ではない、僕たちの国の等身大がある。リスナーがアーティストというレンズの向こう側にある世界を疑似体験したり、エンタメとしてのスケールだけで測っていたりするのではなく、アーティストと同じアングルになり、空気を感じる。こんな時、清志郎さんだったらどんなふうに思うのだろうとか、あの時の清志郎さんはどんなことを考えていたのだろうとか、全てが生き方になる。僕が清志郎さんをはじめて目撃した時、もちろん音楽に感動したのだけど、どうやって帰ったのか憶えてないくらい、凄いことになったんです。それが35年経ったいまも、リアルタイムで感じたことが時空を超えてやってきたんです!全く変わらずに、それどころか時代を超えてきた分、最強になって僕に襲いかかってきた。「お前がやるべ きことがある!お前にしかできないことがある!それをやって成功させるんだ!ロックを生きろ!」と!僕はいつのまにかつまらない人間になっていて、そんな時によく清志郎さんに「お前は自由にしていないとただのつまらない奴になる」と言われてたことを思い出しました。僕がRCサクセションを好きになった最初のインパクトは、清志郎さんの自由で型にはまらないロックンロールでした。これからの日本の子供たちに、僕が清志郎さんから受けたような、この感じを伝えていきたいと本気で心に刻み、「君が僕を知ってる」を意訳して(笑)、「me(僕) and baby(君) music(知っている=好き=楽しい))」 と名付けました。厳密にはあの歌は『RHAPSODY』には入っていないのですが、あの時によくライヴでやってました。僕は『RHAPSODY』を聴くとこの歌が聞こえてきます。今年の9月に『RHAPSODY』がリマスターSHM-CDで発売になりました。ライナーノーツは光栄にも僕が書かせて頂きました。とても嬉しく、ここからが人生の本編だと強く実感しました。

―高橋さんの今後の夢を教えてもらえますか?

高橋:僕が清志郎さんで生き方が変わったように、これからの若い人たちが、うちのアーティストを聴いて、観て、生き方が決まる。これが最高で、これしかないです。清志郎さんがMCで言ってました。「努力して夢を現実にするんだ!」と。夢と努力。勇気が湧いてきます。

 

■me and baby music (http://me-and-baby-music.com/

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所属アーティスト

★山﨑彩音

1999年1月26日生まれ
16才のロック魔女
現在高校2年生
アコースティックギターとその身一つで唄う。
余計なものはいらない。

全ては“Love&happy”
今日もどっかの街で最高のロックンロールをやらかす。

2015年12月18日 ファーストE.P「Yer」を発売!
窮屈な今を生きているみんなに聴かせたい唄があるんだ。
キレイな言葉でも理屈でもない、私だけの唄を君は聴いてくれるかい?

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岡本貴之(おかもと・たかゆき)

東京都在住1971年生まれの43歳 フリーライターとしてWEB音楽メディア(OTOTOY / BARKS / Skream! etc…)や雑誌「TRASH-UP!!」等で執筆しており、R&B、ブルースをルーツに持ったギターロックからプロレス、お笑いまで幅広くエンターテイメントに関する取材をおこなっている。

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